ふたりの人魚

ふたりの人魚 [DVD]

ふたりの人魚 [DVD]


・ちょっと不思議なラブストーリー
・現実はどこか?というか、どこまでが現実かが重要



最高に好きだ。
『愛しているなら探してよ、人魚になった私を』
いやいやいや、素晴らしい。
淡々としてて、とくに盛り上がりがあるというわけでもないのだが、不思議と何度でも観れる、そんな映画。
私はこれで愛の意味を知った。という嘘がつける。


以下簡単にあらすじ。
【酔うと彼女は必ず尋ねた。
『私が戻らなかったらマーダーのように探す?』「マーダーって?」『マーダーは愛する娘を探し続けた男』
そんなありふれてるであろう恋物語を彼女は話す。
ボクならば、、そうボクならば、、、
そうして創り出されるマーダーとムーダンの二人の恋物語。徐々に話が発展し、ついに二人の恋が哀しい結末を迎えたとき、現実にマーダーがボクの前に現れて言った。『彼女を返してくれ、彼女はムーダンだ』】


現実世界のボクと彼女。
物語の世界のマーダーとムーダン。
この二つの構造が、徐々に曖昧になっていく。
マーダーが現実に現れた事で、ボクとマーダーは別人である事が分かるが、果たして彼女とムーダンは別人か同一人物か?


さて、ここで面白いなと思うトコであるが、どこまでが『ボク』の創り出した物語なのか?
マーダーとムーダンの恋物語が始まる時に、『ボクならこうする』と創作を宣言している。
そのあと、現実にマーダーがボクの前に現れたという。
この『現実』とは一体なんなのか?
物語の住人マーダーがリアル世界にやってきたかのようだが、これが逆である可能性はないか?
『ボク』が物語の登場人物になった可能性。『現実に現れた』というコトすら物語の可能性。


このように考えると、なんて楽しい映画だ!と立ち上がり拍手したくなる。
映画の冒頭、オープニングの際にオリジナルのタイトル『蘇州河』が流れているシーンがある。
ここでは日々の暮らしに負われた人々が映されているのだが、それはまさにリアル中国を生きている、物語など入り込む余地のない『現実の世界』である。
ところが『ボク』が始めた物語はどんどん溢れだし、周りの人々(例えば彼女など)すらその住人にしてしまっている。


ファインダー越しに見た事しか考えられない(『ボク』はカメラを回している)、つまり眼の前の現実を生きる事で精一杯な人々の街に一つの物語が生まれ、そこからどんどん大きくなり、ついには街は物語で溢れ出す。そういったファンタスティックなお話であると思っている。